人間の一般的な性向として、知らないもの・必要でないものは一般的な重要度も低いととらえてしまうようです。
言語で例をあげると、母語に存在しない外国語の概念は重要であっても「追加」「おまけ」として扱ってしまう。
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日本人は a/the を「冠詞」、文字通り本体にお飾りで付ける冠みたいなものと扱いがちです。名詞 xx に冠詞を「付ける」という感じですね。西欧言語では冠詞と名詞とがいわば不可分になって文脈上の意味を示します。マーク・ピーターセンの「日本人の英語」(岩波新書)が取り上げた chicken/a chicken の例はこの本の刊行当時(1988年)に多くの読者に新鮮な驚きをもたらしました。
中国語等の声調言語での声調についても同様です。日本語に声調がないので、声調は発音に「付けるもの」という意識がなかなかぬぐえない人が多いようです。実際には声調は発音の構成要素として母音と不可分なのですが…。
英語の話者にも日本語の助詞(て・に・を・は)について同様の思い込みをしている人がいますね。「私に今日を東京が行った」と言って、誤りを訂正されると
「たかが助詞1文字のちょっとした間違いだ」
と思ってしまう。助詞が文意を決定する重要な役割を持つことを「ハラの底」ではまだわかっていない。
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外国語を使うときにはこのような母語の強力な影響・呪縛から逃れる必要があります。英語の冠詞や時制にしろ中国語の声調にしろ、「学んでわかった」状態から一歩進んで、自分の内部に取り込んで自由に使えるようにしていくことが重要なのでしょう。
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西新宿のとっておきの隠れ家。仲間に教えてもらいました。コーヒーの専門店ですが、サンドイッチもおいしい。