先日は姉弟子と仕事でしたが、その次は妹弟子と一緒になりました。この妹弟子、またの名を通訳者Mという。
通訳者Mさんのブログ記事はおすすめです。着眼点がすばらしいし分析も鋭い。私は読むたびに
「わかってるね…」
「それは気づかなかった…」
と感心するばかりです。
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通訳者が通訳する話の内容を理解することについてMさんと話をしました。
単純化すると2つの極端な例が考えられます。
- ほとんど文法や文脈の力に依存して訳文を作っていく。ことによると通訳者が話の内容をほとんどわからなくても通訳が成立していく。
- 通訳者の脳裏に話者の考えや表現がくっきりと浮かび、通訳者は自分の理解を訳文にしていく。
私の考えだと、実際の通訳は
- 上記2つの間のどこかで訳文が生まれ、
- かつその「どこか」は時々刻々と浮動する
のではないだろうか、というものです。話者と通訳者とは別の人間ですし、通訳者は話者と同程度の専門知識・経験を持つことは普通ありえない。しかし、用語などがまったくわからずに通訳ができるとは到底思えません。
したがって、
機械的に文を構成する <===> 内容を再現していく
この間のどこかを常に行き来しながら訳していくような気がします。内容や主張がおおむねわかっていれば少しくらい予定外の用語が出てきてもそのまま(カタカナ等で)訳文にそれらしく埋め込んでしまえば会議は何事もなかったかのように進み(通訳者の心には「?」が漂うが)、通訳は成功する。
通訳者の理解の度合いが下がってくると通訳者が感じるストレスが多くなり、やがて訳文が意味をなさなくなり通訳音声を聞いている人たちの心に「?」が漂う。これは通訳の失敗です。
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通訳者にとってなじみの内容だったり予習が十分にできていればそれだけ訳文を自然にしたり聞きやすくまとめる方面に「脳内資源」を差し向けることができます。そうでない場合は耳に入る音声の解析に資源を多く投入するために訳文がわかりづらくなったり不自然になったりする。私はそんなふうに感じています。
したがって「言語の力か専門知識か」という二者択一の問いにはおそらく意味がない。どちらも必要です。職業なのですから、できることはすべてしなければなりません。知識面で苦しいときにはしっかりした言語運用能力でなんとか体裁をつくろい、知識に助けられるときには言語運用能力を生かしてさらに正確で整った訳文を出す。そしてこの両者の割合が一瞬ごとに変化しつつ通訳が進行するのだと思います。
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しばらく食べていません。沖縄名物ですから、やはり夏に食べたくなるのかな。